2015年6月22日月曜日

日韓国交正常化50周年

ご無沙汰しております。小室です。

さて、6月22日は日韓国交正常化50周年です。

50年というのが長いのか短いのか、私には判断がつきません。半世紀と思えば長いとも言えます(逆も言えますかね)。いずれにせよ、区切り良く感じる数字であり、節目になるであろう年でしょう。

ここ数年、日韓関係が最悪の状態だと言われてきました。冷えきった、最低、最悪。これらの言葉は日韓関係を説明する時に使われますが、使い古されて擦り切れそうなほどです。しかし疑問にも思います。果たして本当に日韓関係は冷えきっていて、最悪で、最低なのでしょうか。

政治においてはこの言葉は当てはまるかもしれません。近隣国での首脳会談が数年越しで開かれていないのは少々まずいと思います。文化遺産登録でも一悶着ありました。日韓での揉め事は事欠きません。

民間においてはどうでしょうか。政治などどこ吹く風、相変わらず双方の文化に関心があったり、旅行や留学をする人たちはいます。ただ嫌韓、反日は依然として存在すると表現すべきか、台頭してきたと言うべきか…。ネトウヨ、イルベといったインターネット空間を主な活動場所とし、憎悪表現をする人びとが増えてきた感覚はあります。最近はすっかり、インターネットから飛び出し、街頭での活動に積極的です。

政治はお互いの利害関係で、対立してみたり、協力してみたりするでしょう。一種のパフォーマンスだと思います。余所様を批判しておけば国内のガス抜きにもなります。思惑があるのだろうなと思って、踊らされなければいいだけです。

問題は、日本・韓国ともにネトウヨやイルベといった存在を抱えていることではないでしょうか。これはドイツにおけるネオナチの台頭や、ロシアにおけるホモフォビアの動きと共通する部分もあるかもしれません(直感的に、です。もう少し本読みますね)。彼らはなぜ、特定の他者を攻撃し排除したがるのか。直接会って話を聞いているわけではないので何とも言えませんが、SNS上でのコメントや彼らを追ったルポライトを読む限りだと、喪失感を抱えているように見えます。奪われていると感じ、これ以上黙っていられないと感じている人が多いように思います。

そうした喪失感はどこからやって来ているのでしょうか。本当に、彼らが憎悪する他者を排除して取り返すことの出来るものなのか疑問は多く残りますが、こうした奪われている/奪われたという感覚が落ち着かない限り、ヘイトスピーチと呼ばれる彼らの活動は収まらないと思います。ヘイトスピーチを法規制することの重要性は承知していますが、彼らがどうして差別に走るのか原因を解明する必要もあると思います(社会学の出番ですね!)。

ヘイトスピーチと呼ばれる活動は目も当てられないようなものが多いことは事実です。「あいつらはどうしようもない」と切り捨ててしまうのは簡単ですが、その主張をしているのも日本社会に生きる1人の人間なのです。解決しようと取り組むのが彼らの発言で傷つき、苦しみ、恐怖を感じているマイノリティに対する日本人というマジョリティの責任なのかとも思います。

だいぶ脱線しました。日韓関係が冷え込んでいるというよりも、それぞれの国内情勢が嫌韓・反日に傾いているのではないでしょうか(韓国ははっきりとは分かりません。何を反日とするのかも難しいですから)。政治のトップが友好関係をと言っても、関心のある人同士が交流しても、国内のレイシストとの対峙を避けている限りは真の日韓の友好関係は築けないでしょう。そういった存在を生んでしまうのは環境・土壌があるからでしょうし、それは日韓関係に限らず、人の往来が更に増してくるだろうこれからへの備えとしても必要なことでしょう(日本が持つ韓国への眼差しはとりわけ入り組んでいるとも思いますが)。

これからの日韓は、解決すべきことは解決し、過去を繰り返さず、建設的な関係を発展していく関係になっていくことを望みます。そしてそのためにも、自分ができることを精一杯、がんばりたいです。

水曜集会を後ろから撮ってみたよ

こんなソフトでかる~いことを書いてしまえるのは、私たちの世代が大変恵まれているからかもしれません。そう思わされたのはこちらの記事で写真を見たからです。

波乱続きの日韓50年、モノクロ写真で振り返る

「アメリカと戦争してたの?」と言ってのけてしまう子がいる時代です(それは教育の問題でもあるか)。韓国留学をしても아침이슬を聴かない時代なのです(これは自戒)。50年後、下手してなければ生きているはずなので、日韓国交正常化100周年を幸せな気持ちで迎えたいものです。